わたし
2014年4月22日自分を、おかしいと思う。
大体、こうも涙があふれるほどの関係だったんだろうか。
思い込みが強いだけで、実は涙するほどの関係でもなかったんじゃないかと思うこともある。
だって、人間は生まれ、いつかは必ず死んでいくのだから。
もちろん、私だってそう。
思ってもない訃報に、こころを掻き回されているに過ぎなくて、それが、あまりに早すぎたから混乱しているだけで、何もできないから思いつめてしまうだけで、実は、たまゆら、そう、たまゆらのような、人生のわずかな時間を共有したにすぎない、それだけの関係だった、それが正解なんじゃないかって。
そう考えると、思いつめる自分が滑稽にすら思えてくる。
死に直面したとき考えたことは「生」だった。
何のために生きるのか、生きて、生きた先に何があるというのか、どんな生き方をすれば何かしら納得できるというのか、やさしくあることができれば満足が得られるのか、所詮、善であろうが悪であろうが、それを作り出したのは、何十万年も続く世界の、ほんの僅かを共有する者たちに過ぎなくて、その世界で、どこか、その世界を呆然と見ている自分がいて、私は、まるで、悪あがきをする幼子のようだ。
ぽつんと残されたその場所で、素朴すぎるほど素朴に生きようとする私は、実は人生というものにとても冷めてしまっていて、なのに、泣けてしまったり、立ち尽くしてしまったり、そういう自分を偽善者と嘲笑う。
考える必要などない、ただ全うする。
全うする意味を追求したりしない。
そんな風になりたいとねがうときもある。
なのに
繋いでいた手のぬくもりだったり、抱きしめてくれたあたたかさだったり、そういうものが悲しいくらいこころに残されていて、残されたものを信じることで、人として生きる意味を満たそうとしている私を、どこまでも自分勝手な人間だと思う。
大体、こうも涙があふれるほどの関係だったんだろうか。
思い込みが強いだけで、実は涙するほどの関係でもなかったんじゃないかと思うこともある。
だって、人間は生まれ、いつかは必ず死んでいくのだから。
もちろん、私だってそう。
思ってもない訃報に、こころを掻き回されているに過ぎなくて、それが、あまりに早すぎたから混乱しているだけで、何もできないから思いつめてしまうだけで、実は、たまゆら、そう、たまゆらのような、人生のわずかな時間を共有したにすぎない、それだけの関係だった、それが正解なんじゃないかって。
そう考えると、思いつめる自分が滑稽にすら思えてくる。
死に直面したとき考えたことは「生」だった。
何のために生きるのか、生きて、生きた先に何があるというのか、どんな生き方をすれば何かしら納得できるというのか、やさしくあることができれば満足が得られるのか、所詮、善であろうが悪であろうが、それを作り出したのは、何十万年も続く世界の、ほんの僅かを共有する者たちに過ぎなくて、その世界で、どこか、その世界を呆然と見ている自分がいて、私は、まるで、悪あがきをする幼子のようだ。
ぽつんと残されたその場所で、素朴すぎるほど素朴に生きようとする私は、実は人生というものにとても冷めてしまっていて、なのに、泣けてしまったり、立ち尽くしてしまったり、そういう自分を偽善者と嘲笑う。
考える必要などない、ただ全うする。
全うする意味を追求したりしない。
そんな風になりたいとねがうときもある。
なのに
繋いでいた手のぬくもりだったり、抱きしめてくれたあたたかさだったり、そういうものが悲しいくらいこころに残されていて、残されたものを信じることで、人として生きる意味を満たそうとしている私を、どこまでも自分勝手な人間だと思う。
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